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いきいきOB訪問1

郷土の偉人の業績を、長く伝え残したい

升井 紘さん

広島県三次市布野町にある「中村憲吉記念文化館」の館長を務める升井さん。在職中はアララギ派の歌人・中村憲吉とはまったく無縁と思っていた。そんな素人がどうして館長になったのか。そこにはふる里を思う心と、運命ともいえるつながりがあった。

本文

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郷土の偉人の業績を、長く伝え残したい 本文(PDFファイル 989KB)

サイドストーリー

ふるさと布野と升井さん

升井さんの暮らす広島県三次市布野町は、JR三次駅からは大よそ30分のバスを利用する。布野バス停で下車し、国道54号線(旧出雲街道)沿いに徒歩2分で「中村憲吉記念文芸館」に至る。布野は、中国山脈の山間に開けた町、というよりは里の趣だが、静謐な空気と穏やかな人情に溢れていた。


「中村憲吉記念文芸館」

平成16年に三次市と合併するまでは、布野村という自治体であった。村の面影を残しながらも、この地域を活性化し、村の文化を後世に残して行こうと立ち上がったメンバーの中心的役割を果たしてきたのが升井さんである。「長く村を離れていたからこそ、村のことを客観的に見ることができた。寂れ行くふる里を目の当たりにして、村のことをもっと知りたいと地域への思いが強くなった」と、言う。


2016年4月頃発売予定の
「しがらみ」のラベルイメージ

昭和19年生まれの升井さんは、6歳の時に教師だった父と死別。本誌で触れているが、中村憲吉と父との関係を知った時、幼くして失った父への思いが胸をうったに違いない。郷里の偉人、歌人・憲吉の中に父の面影を重ねたことであろう。

村に残る民話、昔話を掘り起し、それを編さんして後世に残す活動。この物語に、地域ゆかりの人たちに挿し絵を描いてもらう。また、小学生に絵を描かせての絵本作りと、人と人とのつながりをより強固にするアイディアには敬服した。

また地域おこしの新しい活動として、地場産米を使った日本酒の売り出しが始まろうとしている。三次市の酒蔵とタイアップしたこの日本酒は、合鴨農法で作られた酒米で醸造された特別吟醸酒は「しがらみ」と命名された。酒の名は、憲吉の歌集「しがらみ」から採ったもので「土間のうへの寒き風より酒蔵のにほひ流るる夜は深けれ」の歌が、憲吉の写真とともにラベルになるそうだ。

升井さんのふる里、そして憲吉への思いを聞く中で、ここ布野小学校4年生と憲吉終焉の地である尾道・長江小学校4年生の間で、憲吉の歌を通じた学習定期交流が30年以上に渡り続いていることを知った。

昭和初期に亡くなった歌人を通して小学生たちが交流を重ね、歌の意味と心を勉強する。文化を大切にするもう一方の地、憲吉終焉の家を大切に保存しているという尾道に向かった。

歌人 中村憲吉とその足跡

升井さんと数奇な糸でつながっていた中村憲吉の生家は、金融業のかたわら多くの田畑・山林を所有する大地主で、醸造業も営む大資産家だった。

そこの次男坊として生まれた憲吉は、三次中学から鹿児島第七高等学校に進学。そこで「アララギ」を興した伊藤左千夫の門下生(堀内卓造)と出会い短歌に目覚めた。七高在学中に伊藤左千夫に自作の短歌「竹」を送ったところ、左千夫が選をする某新聞紙上に彼の賞賛の言葉とともに掲載された。それをきっかけに伊藤左千夫に師事することになり、「アララギ」に入る。そこで斉藤茂吉、土屋文明、島木赤彦らとの交流を深め、アララギ派の有力な歌人として活躍したが、結核を患い四十六歳で死去。三十年に満たない歌人生活の中で三千首を越える短歌を残した。


中村憲吉記念文芸資料館

記念館は屈指の資産家であった中村家の建物だけに、中村憲吉記念文芸資料館には装飾的なものはなく、骨太な造りでどっしりとした落ち着きとホッとする懐かしいような安心感が漂う。

兄の早世で養子先から実家に戻って当主となった憲吉が、アララギの歌友たちを招くために増築した客殿は、一階が12・5畳と10畳、二階が10畳と8畳のいずれも続き間の和室で、東西にそれぞれ廊下が設けられている贅沢なもの。特に一階の天井には松の一枚板が張られている。資産家ならではの造作だ。


記念館の座敷


アララギの木

館内には、本人や歌友などとの直筆の書簡などの貴重な資料が、こんなに無防備で大丈夫だろうかと心配するほど、手近に見る事ができる。

中庭にアララギの木が一本植えられている。アララギの別名はイチイ。伊藤左千夫がアララギを掲げた裏には、「我々が短歌の世界で“一位"になる」という決意が込められていた・・・というエピソードも。升井さんたちにガイドをお願いすると、そんな話を聞くことができる。


茂吉と文明の歌の碑

館内には何首もの短歌が紹介されている。憲吉がなかなかいい歌が読めずにいたとき、柱の大時計の音に我に返って読んだという「気のつけば柱の上の大時計 二時をうちたり宣べや久しみ」もそのひとつ。その短冊が二時を挿したままの大時計の脇に飾られている。

また、玄関脇にある斉藤茂吉の「よろこびをしみじみとして語りたり 文明君と床をならべて」と、土屋文明の「君がいへに夜もすがらなる樅の雨 ほのぼのとして鳩のなくなる」のプレートは、憲吉と両人との付き合いの深さを物語っている。

*短歌の表記はすべて原文のままです。

中村憲吉 終焉の地(尾道)

結核を患った憲吉は四十三歳の時、五日市町(現・広島市佐伯区)に転地療養し、そこでも歌会を催すなど創作意欲に満ちていた。翌年、再度の五日市療養の後、療養先を尾道の千光寺近くに移したが、病状は快方に向かうことなく四十六歳で没した。


「中村憲吉終焉の家」

憲吉が療養を続けていた家は、現在「中村憲吉終焉の家」として尾道市によって保存・管理されている。

尾道、千光寺公園といえば「文学の小道」で有名だ。

頂上の千光寺公園まではロープウェイがあり、頂上からは尾道水道を挟んで向島。さらには「しまなみ街道」と呼ばれる本四架橋で結ばれる瀬戸内の島々まで見渡せる。そこから山腹の千光寺近辺まで、林芙美子をはじめとする尾道ゆかりの作家や詩人の作品を大きな自然石に掘り込んだ文学碑が階段状に約1qほど続くのが文学の小道だ。

古くは頼山陽、十返舎一九、陣幕久五郎、松尾芭蕉。明治以降は正岡子規、志賀直哉、徳富蘇峰、山口誓子、吉井勇、金田一京助らも尾道に足跡を残している。また、大相撲の尾道場所を記念した貴乃花・曙・若乃花・武蔵丸の手形が掘り込まれたものもある。

憲吉終焉の家は、文学の小道が終った千光寺のすぐ下にあり、終焉の家を見るだけなら登っても良いが、文学の小道を歩くのであればロープウェイで頂上まで上り、小道を下るのがお勧めだ。

(LA No.349)

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