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いきいきOB訪問1

地域の景観を守り人々のつながりを育てる

蘭(あららぎ)晴男さん

現役時代から九州各地を飛び回る日々を送っていた蘭晴男さん。「いずれは故郷の役に立ちたい」という思いから、セカンドライフは実家のある佐賀市赤松校区に根を下ろしました。
自治会活動に参加するうちに、地区内の高層マンション建設計画を知り、建設阻止運動の中心メンバーとして活動。すでに業者に売却されていた市の土地を県が買い取るという形で、景観を守ることに成功しました。それをきっかけに、お濠のハスの再生運動やホタルの保存活動をはじめ地域の活動を精力的に続けています。気負いなく、自然体で臨む姿が印象的な蘭さんでした。

蘭 晴男さん

本文

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地域の景観を守り人々のつながりを育てる 本文(PDFファイル 1.2MB)

サイドストーリー

―歴史を伝える鯱(しゃち)の門を中心に、地域の活性化を演出―

「赤松校区鯱の門まつり実行委員会長」の肩書を持つ蘭さん。「鯱の門まつり」は、毎年佐賀市城内の佐賀城本丸歴史館を中心に行われる賑やかな祭りです。17回目となる今年も8月19日に開催されました。当日は、たくさんの出店が並ぶ中、蘭さんの出身校でもある地元の赤松小学校の児童たちによる「赤松小嘉城子ども太鼓」が披露されました。法被姿の児童の力強い演奏に、会場からは大きな拍手が送られました。会場ではビンゴゲームや盆踊りなどもあり、浴衣姿の家族連れで賑わいました。

鯱の門まつりの舞台で挨拶をする蘭さん
鯱の門まつりの舞台で挨拶をする蘭さん

佐賀城は戦国時代に龍造寺氏が整備した村中城を、鍋島直茂・勝茂親子が拡張したもので、遠ざかるにつれて城が楠や松の林に沈み込んで見えることや、かつては幾重にも外堀を巡らして、敵が攻めてきた際には主要部以外は水没させて防衛する仕組みになっていたことから、「沈み城」とも呼ばれました。しかし、明治初期に起こった佐賀の乱により大半の建造物は焼失し、現在では鯱の門と続櫓(つづきやぐら)のみが残っています。
鯱の門は、屋根の両端に青銅製の鯱が載ることからそう呼ばれています。1836(天保7)年に建立されたこの門は、蘭さんのセカンドライフとも縁の深い門です。

佐賀城址に現存する鯱の門
佐賀城址に現存する鯱の門

退職した1996(平成8)年4月、東城内自治会の会計となり、自治会活動を始めた蘭さんが、最初に参加した大きなプロジェクトが、「鯱の門を守る会」の活動です。それまで鯱の門の門扉は、きちんとした形で開閉されていませんでした。そこで、蘭さんたち51名は「鯱の門を守る会」を結成し、門扉の開閉を当番表によって実施することにしました。いわば地域活性化の第一弾ともいえるこの活動は、大成功を収めました。
「門に来られた方には記帳をしていただきました。その記帳簿によれば、2004年(平成16)年3月までに、延べ2万5,412名の方が訪問されました。国内だけでなく、外国からも延べ73か国のお客様が来られました」。
住民によるこの活動は2004年3月で終了し、その後は市による管理に引き継がれています。
かつて本丸御殿があった場所には、現在は「佐賀城本丸歴史館」が建っています。本丸御殿の一部を忠実に復元した2,500平方メートルを誇る建物で、館内には「幕末・維新期の佐賀」をテーマに佐賀城の復元や幕末・維新期を先導した佐賀藩の科学技術、佐賀が輩出した偉人などについて紹介した展示があります。しかも入場料は無料。そのため、佐賀市の観光拠点として多くの観光客が訪れています。
こうして佐賀城址が賑わいを見せるのも、蘭さんたちの活動があるからこそ。地元の赤松校区に対する蘭さんの思い入れも半端なものではありません。生家は少し離れた場所にありましたが、間もなく転居したのが赤松校区。幼少時から周辺を遊び場としてきました。「通学した赤松小学校も、移転前は鯱の門のそばにありました。幼少時から親しんできた土地だけに、美しい景観を守り育てながら、たくさんの人々に親しまれるようにしたいですね」。
佐賀城址の景色を見る蘭さんのまなざしは優しく、穏やかでした。その視線は地域の未来も見据えているように映りました。

再生したお濠のハスの前で
再生したお濠のハスの前で

(LA No.136)

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