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いきいきOB訪問2

今日より明日は、もっといい日

城島 朋子さん

入社以来20年以上、一人で続けてきた老人施設での音楽指導(音楽療法)ボランティアが、施設の事情で終わる頃、職場の仲間との新たな活動が始まりました。誕生したのは「NTT佐賀ハンドベルクラブ」。職場の仲間が参加し、応援してくれた活動は、それまでとは違った喜び、分かち合えることの愉しさを教えてくれました。
佐賀市にあるコミュニティセンタで、仲間と練習に励む城島朋子さんを訪ねました。

城島朋子さん

本文

冊子本文はPDFにてご提供しております。本ページをご覧いただく前に是非ご一読ください。

今日より明日は、もっといい日(PDFファイル 1.2MB)

サイドストーリー

―ハンドベルの仲間たち―

城島さんが長年つづけてきた、老人施設での音楽療法のボランティア活動が発端となり、1996年(平成8年)、NTT佐賀支店の女性達が声を上げた。
「自分たちも、できることがあればやりたい」と。その思いは、城島さんをリーダとするハンドベルクラブという形で結実する。発足当初はほとんどが現役であったメンバーも、今では現役で働いているのは3人だけ。30人近いメンバーは退職してOGとなったが、今もハンドベルで繋がる。

練習のあい間に何人かのメンバーから話を聞いた。
「演奏が終わって“お年よりがこんなに楽しそうな表情をしたのは初めて”と言われることがあります。そんなときは、伝わっていることを実感して嬉しくなります」
「一人で行く勇気はないけれど、皆で一緒に行くからやれるのだと思います。施設に行くと、私たちの方が元気を貰います。自分自身にとっても、いい活動です」
「個人的に辛い時期があり、その頃に友達に誘われてクラブに入りました。練習が始まると、音に集中してないとついていけない。気が紛れ、いつしか辛いことなど忘れていました。練習を続けて上手くなると楽しくなり、いつの間にか10年が過ぎました」

ハンドベルは25種(2オクターブ)の音がワンセット。現在12セットあるそうだが、この購入資金のカンパをしてくれたのは職場の仲間や上司だった。幹部会議の席でもカンパのお願いをして協力を得た。会社のありがたさを身に沁みて感じたという。

城島さんはハンドベルの指導だけでなく、クラブで演奏する曲の楽譜作りも担(にな)っている。曲ごとにパートの楽譜を手書きする。これまでに延べ1,000枚以上の楽譜を書いてきたことになる。あるメンバーは“これだけの譜面を他でも有効活用できないだろうか”と模索している。

「毎月1回、日曜日の午前はハンドベルの練習と仲間達とのおしゃべり。車で1時間半かけて来るメンバーもいます。メンバーはハンドベルだけでなく、それぞれの地域で活躍しています。楽しくなきゃ、面白くなければ続きません。楽しく元気にやっていくことが、長続きすることではないでしょうか」と、城島さんは語る。

―病気を乗り越え―

老人施設で音楽指導を始めた頃の城島さん 老人施設で音楽指導を始めた頃の城島さん
老人施設で音楽指導を始めた頃の城島さん。

1歳の頃に罹(かか)ったポリオは、城島さんの夢であった先生になる道を閉ざした。
「夢は施設の先生になることでした。高校を卒業後、保母の養成学校に入りましたが、半年程して担任の先生に呼ばれ、『あなたに保母の免許は渡せても、就職の世話は・・・。いざというときに小さな子どもを抱えて逃げることができますか?』と言われました。それで保母になることを諦めました」
『抱えて逃げることができますか?』という言葉は、一度も走ったことのない、走ることが叶わなかった少女にとって、どれほど辛い言葉であっただろうか。

「ポリオの機能回復のためにと、子どもの頃からピアノを習っていたことから、親に無理を言って音楽学校に入りました」

保母の学校を退学する本当の理由を親に話せなかった。多感で芯の強い少女であった。
音楽学校の恩師が、認知症と音楽療法の研究を進めていたことから老人ホームへ音楽指導に赴(おもむ)くこととなる。城島さん、22歳。電電公社に入社した時期と重なる。
しかし、ホームでの音楽指導は生易(なまやさ)しいものではなかった。
「そげなこっ、今さらして何になると?寝とったほうがましたい・・・」
楽譜は投げられ、捨てられた。悩んだ・・・。
悩むうちに子どもの頃の自分、心を閉ざしていた自分の姿が甦(よみがえ)った。あの時、家族や友達は優しく寄り添ってくれた、と思い出した。
それから、お年よりに寄り添うこと、歩み寄ることに努めた。教壇に立つのではなく輪の中に入り、お年よりと共に歩み始めた。
いつしか、お年よりは玄関で城島さんの到着を待つようになっていた。
その活動は、ホームの事情で終わるまで、20数年に及ぶこととなった。

「行きたいと思ったことは一度もないが、でも、行かなければよかったと思ったことも一度もない」と、施設での音楽指導を振り返る。

―悪化するポリオ―

今年の誕生日、自宅で愛猫と一緒に
今年の誕生日、自宅で愛猫と一緒に。

病気は40歳を過ぎた頃から徐々に進行する。インストラクタの講師として教壇に立ち、チョークを手に黒板に向かっていたときのこと。右手からチョークがこぼれ落ちた。筋力が低下していることを知る。50歳の頃からは、ちょっとした段差に躓(つまづ)いては転び、骨折を繰り返すようになる。薬や治療法はないと諦めていたが、病院で相談をした結果、杖と装具を着けることとなった。ポリオの会を知り、支えあう、助言がもらえる仲間ができた。
最初、足首だけですんだ装具は、今では下半身全体に必要となった。
一番楽なのが自動車の運転、次は車椅子だという。

両親を引き取るために引っ越したマンションは、段差が多くて暮らしにくかった。リフォームを考え、工務店や建築会社に見積依頼したが費用的に無理であった。諦めかけていた頃、発想を転換したリフォームの提案をしてくれる建築会社が現れる。床面を嵩上(かさあ)げして段差を無くす方法により、車椅子で自由に動ける快適な生活空間が実現した。
だが、車椅子の生活が始まるとブラインドの上げ下げ、カーテンの開け閉めと、車椅子では手が届かない。そんなさまざまな問題に対応できる暮らしの知恵と工夫、進行する病気に応じた医療器具のことなど、サポートしてくれたのはポリオの会で知り合った仲間だった。改めて、仲間に支えられ助けられていることを実感する。

「乏しい予算ながら、不便な自宅マンションのリフォームができ、不安のない空間の中で朝を迎える幸せを実感します。周囲の皆さんの手助けや助言のお陰と感謝するばかりです。“そう遠くない時期に老人施設へ入ろう”という思念は消えました。自分でできることは自分でやる、この住まいならそれができそうです」

バリアフリーな環境は自宅にとどまらず、マンションの出入り口の段差は埋められ、手摺りが取り付けられた。車椅子や杖を使う城島さんを気遣った周囲の配慮による。行動することが、バリアフリーの実現に役立っていることを実感する。

―明るく元気に生きる―

取材時キーボードを演奏する城島さん
取材時キーボードを演奏する城島さん。

昨年のクリスマスにデイケアセンターを訪問
昨年のクリスマスにデイケアセンターを訪問。

病気のために実現できなかった先生になる夢は、NTT社員として“インストラクタ”や“コーチングスタッフ”として各地で教えることで実現できた。施設で働く夢は、NTTを退職後の3年間“重度心身障がい者施設”のライフマネージャとして働き、入所者の視点で入園者や職員のサポートを行うことで実現した。

城島さんの原動力、想いの強さの理由は何なのか。誤解を恐れずにいえば、城島さんの洋裁の先生がいった言葉を借り『その体でようやるね・・・』と訊いてみたい。

“本を読むのが好き、考えること創意工夫することが何より好き。人に伝えることを学び、伝えた人の成長を実感する喜びがあるから”。
“辛いときほど行動したのは、これまできついことが続いたから。兄の死、父の認知症と介護、実家の倒産と後始末。両親の引き取り、父の看取りと忙殺された日々・・・。自分の体のこと。がむしゃらにやってきたから、時が乗り越えさせてくれた。だから、元気に明るく生きることの大切さがわかります”と、答えてくれるのではないだろうか。

「障がい者だけど、健常者と同じ・・・。ただ、できないことがあるだけと、思っている。『不便だけど不幸じゃない』その言葉を、実感します」

「障がいを乗り越えるのではなく、受け入れて生きています。今日よりも明日、ようやく素直に心豊かに過せるようになりました・・・」

明日に向かって生きる、城島さんらしい言葉であった。

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(LA No.106)

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