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夢のステージ マイセカンドライフ

夫妻で描く夢のステージ、予約満席が続くランチのレストラン

三井 耕二・啓子さん夫妻
楽食茶房 わくわく庵 オーナー

「楽食茶房 わくわく庵」の人気は、なんと言ってもその料理の豪華さと思いそうだが、それだけではない。10数品も用意される料理とお得な値段もさることながら、考え尽くされた庭の植栽の配置、その癒しの空間で心ゆくまで食事を楽しめる寛ぎのひと時。お客さまを迎える側のおもてなしの心、全てが相まってのことのようだ。
サービスを支えるスタッフは現在16人。朝9時から午後3時までと、3時からの翌日の仕込み当番にわかれて働いている。このスタッフの半数は、来店したお客さまだったそうだ。店の雰囲気や啓子さんとの会話から是非一緒に働きたいと勤めるようになった。さらに、4人がスタッフ希望でスタンバイしているとか。そんな人気も、天真爛漫で飾らない啓子さんの姿と「おいでやすの心。おいしものに、いやされて、やすく、すてきな真心で」の、お客さま第一の心遣いに魅かれてのことなのだろう。

わくわく庵入口に立つ夫妻
わくわく庵入口に立つ夫妻

本文

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夫妻で描く夢のステージ、予約満席が続くランチのレストラン 本文(PDFファイル 0.6MB)

サイドストーリー

商売を超えた思いが、人を呼ぶ

「ランチは月替わりなので、前月にスタッフとメニュ−の勉強会をします。旬の食材を考え、老若男女、誰でもが食べやすい料理を、自然の食材を使って美味しく美しく、がモットーです。試作と試食をして、皆でワイワイと話しながら決めてます」と、愉しそうに話す啓子さん。

ランチセット
ランチセット

メニュー開発と料理については、耕二さんは口を挟まない。しかし、食材の仕入れには大活躍する。今年の3月までは1,180円だったランチセットを、4月からは1,380円とした。メニューのメイン素材である豊後牛の値上がりのためだそうだが、それでも利益は度外視である。

「たとえ値段が500円、800円でも、お客さまが満足してくださる料理を出したい。値段以上に満足してくれる食事を出すようにせんと気がすまん。父親がいなかったこともあり、子どもの頃、周りの人から親切に助けてもらいました。この店をやることで、周りの方々の癒しの空間として利用して頂ければと思います。里親を始めたのもそんなことが影響しているのかなぁ・・・」と、耕二さん。

耕二さんが、お客さまから記念写真のお誘いを受けることもあるそうだ。きっと、耕二さんの利他の思い、優しさが伝わるのだろう。

耕二さんの工房 “どきどき耕房”
耕二さんの工房 “どきどき耕房”

母子家庭で自立心が育つ

「昭和19年4月にサイパン島で生まれました。山口出身の伯父がサイパンでサトウキビ農園を経営していて、両親が遊びに行ったところ、サイパンの海が綺麗じゃったので母親が気にいって移住したそうです。ところが、戦況が悪化して私が生まれて間もなく、母と兄・姉と一緒に下関に戻りました。危ないというので輸送船に乗せてもろうたそうじゃが、魚雷を2・3発受けたそうです。軍司令部で仕事をしていた父は島に残ったんで戦死しました。兄と姉は早くから家を出たんで、家には母親しかおらん。そんなことで、自分でなんでもやらんと気が済まんので、子どものころから家の修理も自分でやっていました」
こうして人を頼らない、自立精神の旺盛な少年へと成長するが、子どもの頃に周囲から受けた親切は忘れられないという。

ノンアルコールビールで晩酌

高校時代は短距離100メートルの選手として、インターハイに出場するまでの成績を残した。就職にあたっては、陸上競技部のある地元企業を望んだが、短距離に力を注ぐチームはなかった。結局、電電公社・下関電話局に入り、以来、退職まで線路畑一筋に地元で勤務した。

「入社のときは、仕事がよくできるじゃろかと心配だった。配属が線路だったので、まあ何とかやれるじゃろうと…。仕事は面白かったこともあるし、そうでもないこともあったですよ。線路設計で自分が設計したルートで通すために、地主さんを説得してルートどおりに完成した時などは遣り甲斐を感じたですよ」
「一番困ったんは、酒が飲めんこと。線路は仕事が終わった後は、よう飲みよったですから。アルコールの匂いは好きじゃが、飲めない。体質的に受け付けないんで、何とか飲めるようになりたいと医者にまで相談に行ったですよ。ノンアルコールのビールができて助かりました。今じゃこれを毎晩飲みよります」

お酒を飲む練習をしたが駄目で、相談に行った医者からは「私も飲めんので困っちょるが、あんたはまだええよ。私は海外へ行って、公式パーティに出ると飲まにゃ済まされんで、えらい苦労をしよる」と、慰められたそうだ。
一日の仕事を終え、ノンアルコールのビールで晩酌をやるひと時が楽しみだという。

お母さんのパンチ・・

耕二さんは、三井啓子さんと27歳の時に結婚。啓子さんが一人娘だったので、三井家の婿養子となった。夫妻には子どもが生まれなかった。45歳の時、里親として小学4年生と2年生の幼い姉弟を養護施設から引き取って育てることとなる。

「最初、周りが心配してそんな苦労を背負込むことはないじゃないか、と言われた。それまで、夏休みなどに短期で子どもを預かった経験はあったんじゃが、里親として育てるのは自分らも不安があったんです。それを『先のことを心配しちょったら、子どもはよう育てられんよ』と、両親が背中を押してくれたんで、それで決心がついた」
「子どもは両親を亡くして養護施設におったんで、躾もできとらんかった。これやぁどうしたもんかと、最初はびっくりした。そんなんで、まずは子どもらに自信をつけさせんといけんと毎日一緒にマラソンをしたり、小さな小屋を一緒に建てたり、中古のワゴン車を買ってテント持参で方々に旅行にも行きましたよ。子どもが理不尽なことをしたら殴ったことも…。子どもに腹が立つこともあるが、自分も失敗することもあるんで、その時は素直にあやまる。そんなことの繰り返しで、それでも預かった以上は一人前に育てんと、亡くなった子どもらの両親にも申し訳が立たん。そんな思いじゃった」

三井さん夫妻の思いは通じ、姉弟は立派に育った。姉は高校を卒業と同時に、弟は成人式を迎えた時に、自らの意思で養子縁組の手続きをした。この家の子どもになろうと。
その姉弟は就職・結婚と巣立った。長女につづき、近々に長男の家庭にも子どもが生まれる、三井さん夫妻に二人目の孫ができる。

「親子になれたんは、お母さんのパンチがあったからや」と長女が言う。「苦労を買ってよかった。里親になったから、人生が広がった」と母は思う。父は「わしも養子、みんな養子じゃが、お前だけが違うなあ」と妻に言う。
子どもたちが独立するまでの20年、親と子になるための年月と葛藤。全てを乗り越えてきた、親子の誕生であった。

本誌で「親としての責任が果たせたから…、これからのセカンドライフのために店をはじめた」と、啓子さんが語った言葉の重さを窺い知る。

子育てからお店作りへと、三井さん夫妻の道は丁寧に丁寧に重ねられてきた。

(LA No.164)

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