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夢のステージ マイセカンドライフ

よろこびを創る農園 悠遊ファーム

渡部 永一さん
(有)悠遊ファーム代表取締役

取材のために、稚内空港でレンタカーの手配をした。車の受け渡しの際に何度も注意されたのは、エゾ鹿と乳牛への注意であった。特にエゾ鹿については衝突事故が多発しているとのことであった。

メインハウスバックに語る渡部さん

本文

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よろこびを創る農園 悠遊ファーム 本文(PDFファイル 1.4MB)

サイドストーリー

―駐車場での直売会―

訪問前に渡部さんから、稚内市内のホクレンショップ駐車場で市内の農家の人たちによる直売会が毎週水曜日に開かれており、そこで農作物を販売するとの連絡をもらっていた。先ずは、その販売の様子を撮影に向う。午後2時前、10軒ほどの農家がワゴン車やライトバンに野菜類を積んで集まった。

野菜販売風景
野菜販売風景

直売会は、10月からは午後2時の始まり、夏場は午後3時からとのことであった。
小さな駐車場は、瞬く間に人だかりができて30分程で直売会は終わった。渡部さんに聞くと、毎回こんなものだとの応え。さて、今日の売り上げはどうだったかと気になったが…。この地域も高齢化で、だんだんとお客さんが減っているとのことであった。
この直売会は「夕市(ゆういち)」と呼ばれており、市内の農家20軒ほどで夕市の会と名付けられた会を作っており、そのメンバ−で直売会を開いているとのことである。

直売会の後、渡部さんのトラックの後について悠遊ファームへと向った。海岸線を走る途中、夕日が丘と名付けられた展望台に立ち寄ってくれた。利尻礼文サロベツ原野国立公園に位置し、礼文島・利尻島を望む景勝ポイントとのことだが、残念なことに利尻富士の中腹から雲がかかっていた。
海岸線から上勇知へと方向を転じて進むと、一帯は牧草地となりサイロが点在する酪農村が現れた。牧草地帯を10分ほど走り「悠遊ファーム」に着いた。

夕日が丘より利尻島を望む
夕日が丘より利尻島を望む

―ボランティアのメンバーさん―

悠遊ファームに着くと、ボランティアの皆さんが畑から戻り、帰り支度をはじめていたが、ボランティアの動機などをお聴きした。常時来てくれるメンバ−は6人、年齢は70歳から80歳までのシニアの方々とのことである。
“夕市”で、元気よく販売の手伝いをされていた最高齢のSさんに、ボランティアのきっかけを尋ねると「以前に、渡部さんのお母さん(91歳)と同じ会社に勤めていたのよ。退職して家に居たけど、家にこもっているだけじゃ面白くないし…。ここが出来て声を掛けられたので、市場の売り子から農作業まで手伝うようになってから9年になりますよ」とのこと。年齢を感じさせないフットワークと茶目っ気で、元気いっぱいの笑顔をみせてくれた。
「終戦後の食糧不足の大変さを子供心なりに見てきたので、退職後は農業を覚えたいと思っていました。退職して他所で畑をやっていましたが、渡部さんが始めたので参加するようになりました」と、話してくれたのは、渡部さんが勤務した稚内電報電話局のOGの女性。また、ある男性は「この人(渡部さん)が、あまりにも商売が下手だから、息子に代替わりして時間ができるようになったので、手伝いをするようになった」とのことであった。皆さん、渡部さんのよき理解者でありサポーターである。

大根畑で除草作業のボランティア
大根畑で除草作業のボランティア

―施設と野菜について―

ファームメインハウス全景
ファームメインハウス全景

JR宗谷本線の踏み切を渡り、悠遊ファームの小さな看板を目印に敷地内に入ると正面にメインハウス、右手の奥に宿泊者用の別棟が見える。エントランスガーデンの左奥には、まだ新しい「バーベキューハウス」が建つ。これらの建物のリフォーム・増築、新築と自分たちの手で行っている。建築資材等もメーカーや販売店の不用品を貰い受け、或いは廃棄品の中から利用可能なものを選びと支出を極力抑えてきた。それでも、これだけの規模の建物を拡充・維持していくとなれば費用も大きいと推察する。
渡部さんが、ここを購入した一つの大きな理由が、重量鉄骨造りであったことだという。骨組みがしっかりした建物であれば、長期の使用に耐える、使い勝手のいい施設にリニューアルができる。それは、少ない予算で手作りの自宅を建築した際にも、骨組みだけは重量鉄骨にしたことにも表れていた。若い時から長期の視点で物事を捉えていたのであろう。
ファームは、10年計画で改修をはじめ、7年で喫茶店や食品加工室・宿泊施設が完成。つづいて野菜の冷蔵室、バーベキューハウスや念願であった五右衛門風呂・ロシアサウナもできた。

更に、二年計画で宿泊者用の客室をメインハウス内に二部屋増設の予定とか。長い冬の季節、大工仕事をするのも楽しみだと語る。
渡部さんの創造的な生き方は、北海道の大地を切り拓き、住む家さえも自分たちで作ってきたという、父や祖父のフロンティア精神を受け継いでいる。そしてまた、ボランティアの皆さんの体内には、共に大地を切り拓いてきた相互扶助の精神が脈打っているに違いない。

悠遊ファームのメインハウスに入ると、先ずは野菜の販売スペース。販売所を抜けて階段を上がると、食事やお茶が楽しめる「キッチンゆうゆう」となっている。
ここでは、勇知イモ(ジャガイモ)を練りこんだ特製パンやドーナツ、ピザ・パスタなどの食事とともに、渡部さんが考案したヨーグルトケーキもある。ここは、渡部さんの妹の伊藤美恵子さんが運営している。
美恵子さんに話を聞くと「ここは最初、私の娘が喫茶をやっていました。町内で勇知イモを使った料理の募集があり、イモを練りこんだドーナツを作って応募したところ好評で、北海道新聞にも取り上げられました。そんなこともあって、7年前から私が運営をするようになりました」「今では、野菜を使った料理等を目当てに、土・日曜日は20〜30人のお客さんが来てくれるようになりました」と、忙しい様子を語ってくれた。
取材で訪れた私たちも、新鮮な野菜をベースにした夕・朝食、焼き立てのパン、渡部さん考案のヨーグルトケーキなどを堪能した。

キッチンゆうゆう&パン&店を切り盛りする妹の伊藤美恵子さん
キッチンゆうゆう&パン&店を切り盛りする妹の伊藤美恵子さん

悠遊ファームで生産する野菜は、葉物から根菜、茄子・ピーマン・トマト等多種にわたる。
農園を拓いて最初に植えたのは100株のイチゴ。それが、今では1万株にまで広がった。
秋も深まった取材時、丘の上に広がる広大な農園には1万本の大根が収穫を待っていた。

春の訪れが遅く風も強い最北の大地は、日照時間も少なく農業に適しているとはいえない土地だという。それでも、考案した有機肥料を使い、化学農薬の使用を極力抑えてじっくりと育てた野菜は、安全で美味しいと自負される。この新鮮な旬の野菜や果物を、ファームを訪れて自分の手で摘み取ってほしいという。
初夏になれば、イチゴ狩りやバーベキューに訪れる人々で賑わうことであろう。

―生涯現役の輪を広げたい―

化学農薬に頼らない農業は、人の手が頼りとなる。セカンドライフを、農業で生涯現役と考えている仲間が増え、共同生活の輪が広がれば力強いに違いない。

渡部さんは、WWOOF(ウーフ)「World Wide Opportunities Organic Farms」という「お金のやりとりなしで、食事・宿泊場所と力・知識・経験を交換するしくみ」の世界的な団体に登録した。この団体に入ったことから、ドイツ・イギリス・オーストラリア・台湾・エストニアと海外からもウーファー(利用者)を迎えるようになった。いずれも長期に滞在していくとのことだが、夫婦で訪れ2カ月も滞在した例もあったそうだ。
高齢となるこれからは、体力がいらない、ファームイン(宿泊)と農産物の加工品を増やして、長く農園を営んでいけるようにしたいと語る。正に生涯現役としての理に適ったスタイルと思える。

宿泊客に人気を呼ぶのが、裏の畑に面したオープンデッキに据えられた「五右衛門風呂」と、熱した石に水を掛ける蒸し風呂の「ロシアサウナ」ではないだろうか。 いずれも渡部さんの手作り、こだわりの作である。

五右衛門風呂
五右衛門風呂

一日の仕事を終え、五右衛門風呂に身をゆだねて疲れを癒し、風呂上がりのビールを口にする時、渡部さんは至福のひと時を迎えることであろう。

―九人の乙女の碑―

稚内港や市街地を一望し、遠くサハリンを望むことができる場所、そこが「稚内公園」である。ここに電信電話の仕事に携わる方々にとって忘れられない碑が在る。

市街地遠望
市街地遠望

高台の公園には、遠く広がる海をバックにして市のシンボルともいえる「氷雪の門」(樺太島民慰霊碑)が建立されている。この慰霊碑は、かえらぬ樺太への望郷の念と、樺太で亡くなった人々の慰霊のために昭和38年に建立されたとある。
この氷雪の門の隣に、その慰霊碑は建っている。
『九人の乙女の碑』である。

九人の乙女の碑
九人の乙女の碑

慰霊碑の前の広場は工事中であったが、断って慰霊碑の前に立った。碑には、
「皆さん これが最後です さようなら さようなら」と刻まれていた。
そして乙女のレリーフが飾られ、裏面には九人の乙女達の名が刻まれていた。

昭和20年8月20日、樺太・真岡(ホルムスク)にソ連軍が侵攻し猛攻を加えた。本土との通信を守るために交換業務は欠かせなかった。迫りくる危機の中で、身を賭した志願をし、最後まで真岡郵便局で電話交換業務に就いた乙女らは、身近に迫った危難から逃れるために青酸カリをあおって自決した。
二度と起こしてはならない戦争と悲劇。最後まで、身を挺して通信業務を担った女性たちの慰霊のために『九人の乙女の碑」が建立されたのは昭和38年、氷雪の門と同じくして建立されたとある。
稚内で訪れた最後の場所、それがここ『九人の乙女の碑』でした。

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(LA No.136)

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