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セカンドライフ OBの始めたおいしいお店

蕎麦のはなし

「藪」は黒くて「更科」は白い。
それくらいは知っている。
じゃあ「藪」って何?「更科」って何?
う〜ん。なんとも。知ったかぶりはやめておこう。

蕎麦手帳』(太野 祺郎著:東京書籍)によれば、老舗蕎麦店の系譜は四系統。
一部引用して紹介する。(省略、変更カ所あり)

砂場系

蕎麦を商う店の発祥は豊臣秀吉の大阪城築城の時にさかのぼる、というのが通説。
工事用の砂置き場の周辺に「津(つの)国屋(くにや)」「和泉屋(いずみや)」という蕎麦店が開業し、所在の俗称で「砂場」と呼ばれ、それが蕎麦店の代名詞になってしまった。
砂場の東京進出は寛延四年(1751年)頃と推測される。以来「砂場」の暖簾は関東に広まっていき、暖簾会の砂場会は現在百八十店をこえる規模になった。砂場会といってもチェーン店ではないので、店ごとに独自の蕎麦を追求している。共通点は一番粉を使用した白くて細い麺とやや甘めの汁である。
一方、発祥の地の大阪では「和泉屋」が明治10年代に廃業して砂場の暖簾は途絶えたとされる。

更科系

砂場に続く江戸蕎麦の老舗は「更科」であるが、世間でよく「藪」と対比される。更科の蕎麦は白くて汁は甘い、藪は黒くて汁が辛いというイメージができあがっている。
この両者を名乗る看板は全国各地で目に留まるが、江戸蕎麦の高名にあやかって名付けたものが多く、直系は意外に少ない。
「更科」の発祥は、はっきりしている。寛政元年(1789年)、信濃布の行商をしていた清右衛門が、麻布永坂高稲荷下に「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」の看板を掲げた。
清右衛門はソバ粉の集散地・信州更級郡の「更」と、主家保科家から許された「科」の文字をあわせて「信州更科蕎麦処」としたところ、客が「更科」と呼びならして通称となった。
「さらしな蕎麦」は普通の蕎麦より細く作られる。細いと全体の表面積が大きくなり、汁がらみがよくなる。つゆつきがいいから薄めで甘い汁が合う。

藪系

「やぶ」と呼ばれる蕎麦店は江戸時代中期に出現しているが、周辺に竹藪が多いことからつけられた俗称であった。砂場の名称と同じ伝である。最初に藪蕎麦と呼ばれたのは1700年代、雑司ヶ谷「藪ノ内」に店を張った「爺(じじ)が蕎麦」である。
藪の蕎麦は黒いといわれるが、それは更科と比較してであって、碾きぐるみの田舎蕎麦ほど黒くなく、普通の蕎麦の色といっていい。
藪の汁は辛い。三番粉まで使う普通の蕎麦は香りも甘みも豊かだが、汁にどっぷりつけると特徴が消えてしまう。汁にちょっとつけて啜(すす)るときの動作は、麺を高く引き上げて素早く口に手繰(たぐ)りこむことになるので、粋を身上とする江戸っ子に好まれたに違いない。そんな風潮も後押しして、藪の汁は濃い辛口のものになったのであろう。

一茶庵系

「一茶庵」は歴史的には江戸蕎麦の範疇に入らないが、創始者片倉康雄(友蕎子)は江戸蕎麦の伝統を復活させたこと、その教えを受けた人たちが全国に良質の蕎麦を広め、ニューウェーブの先駆けとなったことからして避けて通れない系譜である。
片倉友蕎子は1926年2月、東京・新宿駅東口に「一茶庵」を開業した。
友蕎子は、蕎麦店で修行したことはなく、全くの独学だった。
第二次大戦でいったん店をたたんだが、戦後1954年に一茶庵は栃木県足利で再出発する。戦後すでに名人として認められていた友蕎子の偉いところは、技の伝承について職人にありがちな偏狭さがないことである。普通なら容易に明かさない蕎麦打ちのノウハウを、公開の教室で惜しげもなく広めていった。
弟子の中には伝統の江戸二八蕎麦にこだわらず、石臼碾き自家製粉の十割蕎麦を手がける者、駒ヶ根市「丸富」のようにニューウェーブの先端を走る者など、蕎麦の世界は暖簾や系譜を超えてボーダーレスになりつつある。


孤峰の板蕎麦

今回「OBの店」で取材させていただいた「孤峰」の蕎麦は、田舎蕎麦である。
店主の佐藤さんは、江戸蕎麦の系譜とは全く異なったアプローチで蕎麦に向かっていた。山形の伝統的な「板蕎麦」に独自の理論を加えて洗練させている。

山形の「板蕎麦」について、前出の『蕎麦手帳』では下記の解説がある。

板蕎麦

山形県一帯に板蕎麦と称する名物蕎麦がある。柾目(まさめ)の杉板で作った浅い箱に蕎麦を盛ることからその名称がついた。
昔から蕎麦栽培が盛んな土地で、親戚や近隣に「蕎麦振舞い」する風習があった。蕎麦打ちの上手な家には常連客がついて、そのまま店になったところが多い。
碾きぐるみの粉で打つ蕎麦は黒くて太い、いわゆる田舎蕎麦である。そういう蕎麦はつるつると飲み込むわけにはいかない。しっかりと噛んで蕎麦本来の味を賞味するのがよい。


信州安曇野の蕎麦畑


蕎麦の花

「しっかりと噛む」、まさに孤峰の蕎麦そのものである。
蕎麦の種類もいろいろ、蕎麦店もいろいろ、人生もいろいろなのだ。

ところで、筆者は生まれも育ちも信州である。しかし、蕎麦は大嫌いであった。
小学生の時近所のおばさんがはじめて、地粉で蕎麦を打って持ってきてくれた。太くて固くて、不味かった。それを母がお愛想に『息子が旨い旨いと、大変喜んだ』という意味のことをいったものだから、その後高校生になるころまで何度となく太くて固くて、不味い蕎麦をごちそうになることになった。
高校生になって通学のため利用した松本駅(40年ほど前)、ここで食べた駅の立ち食い蕎麦がまたひどかった。かけ蕎麦の汁が、麺がみえないくらい濃いのだ。色だけでなく味も濃い。汁など飲もうものなら、その量以上の水を飲まなければならないほどしょっぱい。麺だって信州なのに粉は外国産なのだ。(何の根拠もない。知ったかぶりの友人の受け売りだが、その後「蕎麦粉は信州産を使用」を売りにする店が出てきたくらいだから、立ち食いで信州産は使っていなかっただろうと推測される)
この二つの体験から、蕎麦とは旨い食べ物ではない。という先入観がしっかりと刷り込まれてしまった。

社会人になって会社勤めを始めたのは、六本木六丁目。坂を下れば麻布十番。
更科系発祥の地である。更科系の本店や本家、総本店など様々な蕎麦店が軒を連ねている。しかし何の興味もなく、自ら暖簾をくぐろうとはしなかった。

「蕎麦って旨いかも」と思い始めたのは30代半ばの頃だろうか。 研修会で通っていた神奈川県湯河原温泉の蕎麦店に、先輩に連れて行かれた時だ。蕎麦の風味を殺さないためにワサビが薬味に付かない店。なんとまあつまらぬ拘りのあることか。しょせん蕎麦粉かうどん粉か分からぬような白っぽい都会の蕎麦なのだろう。運ばれてきた蕎麦を見て驚いた。子どもの頃食べた、太くて固くて、不味いあの蕎麦と同じ色をしている。子どもの頃の記憶がよみがえる。しかし、記憶の中の蕎麦に比べてかなり細い。汁につけて口に運んでみる。わずかに啜って、口の中で噛んでみる。しっかりとした歯ごたえ、麺にからみついて舌を刺激する汁の甘さと辛さ。
これかぁ。これが蕎麦なのかぁ。
麺は、歯ごたえがあるが固くなく、汁は味が濃いがしょっぱくない。それにしてもこの汁の味のなんと見事なことか。
『蕎麦とは、麺2汁8の二八と極めたり』
などと、勝手に蕎麦を極めたつもりになり、それ以来「蕎麦は汁、蕎麦は汁」などと唱えながら蕎麦店をめぐり始めたものである。

しかし、蕎麦はやっぱり麺打ち、なのだ。
そのことに気づかされたのは、三鷹の「川義」である。

15年ほど前のある日の夕刻、私は友人と川義で酒を飲んでいた。一仕事終わったあと、まだ陽のある時刻に蕎麦店で一杯。珠玉の時である。天ぷらに玉子焼き、板わさなどありがちな肴でビールを飲み、日本酒を飲み、カッパ(キュウリ風味の焼酎割)を飲んでいると、中年の紳士が現れ、店主となにやら相談したと思ったら、二人で蕎麦打ちを始めた。
こね鉢を二つ並べ、同じ蕎麦粉を入れ、同じに加水し、同じ手順で進めていく。
個人指導の蕎麦打ち道場なのだという。中年紳士もかなり手慣れた感じで、全くの初心者ではなさそうだ。
しばらくして蕎麦は打ちあがった。
『打ち立ての蕎麦、食べてみる?』という店主の誘いに『是非』と気軽に乗った私は、調子に乗ってこう言ってみた。
『やっぱり師匠とお弟子さんじゃ味が違うんですかねえ』
『おお、いいんじゃない、食べ比べてみたら。びっくりするよ』
個人指導の道場なのだ、かなり高額の指導料を支払っているはずの中年紳士は、やや間をおいて『あ、いいですよ。食べてみてください』。すると師匠が『この人もってかえって家族に食べさせるんだから、たくさんはないよ』。って当たり前でしょ。
で、しばらくして私たちのテーブルの上に少量の蕎麦の乗ったざるが4枚。まずは、師匠の蕎麦を食べてみる。蕎麦の食感といい汁といい、あいかわらず旨い。で、お弟子さんの蕎麦を食べてみる。「ん?」「んんっ?」、私と友人は顔を見合わせる。かなり酔っぱらって分別の無くなった二人、『なんだ、こりゃ』と友人『ひどい、ひどすぎる』とわたし。『こりゃあ、蕎麦じゃない』と二人。もちろん中年紳士の大切な蕎麦を只でいただいているので申しわけないのだが、褒めようがない。歯ごたえがなく、蕎麦粉の固まりを食べているとしか思えない食感なのだ。師匠ここで我が意を得たりと『同じ材料でも腕の違いで、全然ちがうんだよ』と破顔一笑。
お弟子さんの蕎麦もどきを一気にかき込んで、口直しに師匠の蕎麦をお代わりした二人であった。
蕎麦はやっぱり打ち手なのだ。
何年か前から店の前を通ると川義のシャッターが降りていることがあり、かといって店が無くなった風でもないのでどうしたのかと思っていたが、店主が3年ほど前に他界したと言うことを今回の記事を書く過程で知った。
日本や海外を蕎麦打ちを教えて旅した店主の蕎麦打ちの講釈など聞きながら、あの蕎麦をもう一度食べてみたかったものである。

さて、孤峰の店主佐藤さんの蕎麦打ちを収録した動画はご覧頂きましたか。
ご覧になって、何か感じましたか。
「凄い技だなあ」とか「旨そうだなあ」とか「食べてみたいな」とか。

私はこう思いました。

『蕎麦打ちやるぞ〜』

蕎麦打ちの技術と理念は孤峰の佐藤さんに師事し、ハートは川義の店主を目指します。

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