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OB対談 | いきいきセカンドライフ

あれから4年。
東日本大震災を乗り越えて・・・鼎談を終えて

村上 郁子さん、阿部 正さん、佐々木 洋一さん

2011年3月11日、東北・関東地方に大きな被害をもたらした東日本大震災。あれから4年。大きな被害のあった気仙沼を訪ね、三人のOBの方々に、その後についてお伺いしました。

佐々木 洋一さん、村上 郁子さん、阿部 正さん

本文

冊子本文はPDFにてご提供しております。本ページをご覧いただく前に是非ご一読ください。

あれから4年。 東日本大震災を乗り越えて・・・鼎談を終えて(PDFファイル 814KB)

サイドストーリー

東日本大震災から3か月後となる2011年6月、編集チームは本誌「防災特集号」(2011年9月1日発行)の取材で、今回訪問した気仙沼や仙台、大船渡などを訪れました。
そして被災されたOBの話を聞き、被災地を辿りました。津波の爪痕は未だ生々しく、廃墟や家々の瓦礫が海岸沿いには手つかずに残っていました。

海岸から山裾に至るまで町が跡形もなく消えたかのような陸前高田、仙台市荒浜地区から亘理町に至る海沿いの惨状。

気仙沼港には焼けただれた船舶が係留されたままでした。津波の恐ろしさを、被害の甚大さを実感するとともに、被害に遭われた人々、とりわけOBの皆様のことを思うと心痛の限りでした。

あれから4年が経ち、その後の復旧・復興への道程はいかばかりか。またOBの皆様のその後を訪ねることで、不時の震災への心構えを新たにすべく取材をしました。

取材では、鼎談に先立ち4年前に訪ねた陸前高田、気仙沼市内、そして南三陸町の復旧状況を視察しました。

道路網の整備は進み、瓦礫や廃屋の残骸はすっかり整理され海岸線の平野部はかさ上げの土盛りが進んでいました。小高い山が切り崩されて、かさ上げの用土として運ぶ大型ダンプカーがひっきりなしに行き交い、復興への兆しを感じました。復興住宅(災害公営住宅)の建設も進んでいるとのことだが、本格的な建設・入居はこれからとのこと。入居者による新たなコミュニティ作りが課題ではなかろうか。

八丈富士
土盛り嵩上げが続く気仙沼市街

震災後から支援の手を差し伸べている、各種ボランテイア団体と地元受け入れ側との協業で、時間とともに変わり行くニーズに対応した新たな取り組みも始まっている。
その一例が、鼎談に出席頂いた阿部さんも参画する「NPO法人 夢未来南三陸」の取り組みであろう。

本誌で伝えきれなかった3人の思い、言葉を掲載します。

本取材は、東北電友会様、同・気仙沼クラブの皆様のご協力により実施しました。

気仙沼を離れても、気持ちは気仙沼住民
佐々木 洋一さん

気仙沼は生まれ育ったところですから本当は離れたくなかったですね。でも、家が津波にやられ、すぐ裏にある鉄筋コンクリートの建物のおかげで流されはしなかったものの、使い物にはならず解体することになり、復興策の職住分離の方針でそこにはもう住めなくなってしまいました。それでやむなく妻の実家のある室根町(一関市の気仙沼寄りの地区)に家を建てました。

新しい環境で少しでも早く地域に溶け込もうと思い、その地区の情報ペーパーに目を付けたんです。情報紙づくりの手伝いができれば、編集作業で地区のあちこちに行って人に会う機会も増えますからね。今、自分には何も肩書きがありませんが、名刺だけは作っています。その名刺には地域のシンボルの室根山と桜の写真をあしらい、自分の似顔絵イラストを入れています。現役時代に少し関わっていたことがあって興味があったからです。

ところがその情報ペーパーは、教員生活を終えた七十代と六十代の方が担当していて私の入り込む余地がない。それで気仙沼時代にやっていた観光ボランティアを室根でと考えたのですがここにはその制度がない。“なかったら自分が創ればいい”といろいろ調べ始めました。

室根という地区は古事記にも名前が登場するほど歴史がある場所で、ここにある熊野神社は和歌山県の熊野大社(本宮と新宮)から分祀してもらったもので、室根という地名も熊野大社があった牟婁(むろ=室)に由来するのだそうです。また、昔の漁師さんは室根山と金華山を見て自分の船の位置を知る―これを「山測(ばか)り」というそうですが―そういうランドマークにもなるシンボル的な山だったそうです。とにかく七百年代からの長い歴史を覚えるのが難しく観光ガイドのボランティアは断念しました。今は「花見をしませんか?」という呼びかけをしたりしています。


佐々木さんが撮影した炎上する気仙沼湾

室根は地区内にお店がほとんどなく買い物がとても不便で、わが家でも週2〜3回は気仙沼に買い物に来ます。そのほかに週1回、気仙沼時代の仲間とグラウンド・ゴルフがあるので、毎日のように気仙沼に出てきます。今は室根に住んでいても、気仙沼住民のような毎日の生活です。

温かい支援を力に、復興に取り組んでいます
阿部 正さん

家屋流失で思い出の品々と全財産を失い、呆然と過ごしていたときに目に入ってきたのがボランティアの皆さんたちの姿でした。「自分も何かの役に立たなければ・・・」と気づかせてもらったのです。同級生の誘いで新聞「一燈」(「すばらしい歌津をつくる協議会」活動のひとつ)の手伝い始めたのはそれがあったからです。

新聞づくりを始めてみると、それ以外にもいろいろなことが見えてきました。支援団体やボランティアさんたちとの窓口としてやらなければいけないことが山ほどありました。最初は支援物資の配布、小中学校への教育支援金の受け渡しなど受け入れる一方でしたが、徐々に被災状況や復興状況の講演や説明、復興に向けた物産交流などで各地(桐生市、川口市、大牟田市、宝塚市など)に出向くようにもなりました。

あれから4年たち、「一燈」は2014年4月発行の36号でピリオドを打ちました(その後2015年3月に臨時号を発行)。協議会も「NPO法人 夢未来南三陸」と名称が代わりました。一見、復興は着々と進んでいるように見えるかもしれません。でも、根こそぎ奪い去られてしまった生活は、季節が巡ればまた花を咲かせてくれる植物のようには簡単に戻りません。「一燈」の臨時号を出したのは、4年を過ぎて復旧・復興がどこまで進んだかを伝えるのが大きな狙いでした。


阿部さんが撮影した南三陸町の津波の様子

歌津地区は、震災前に住んでいた場所は災害危険区域に指定され、住宅を建設することができなくなり、民家の影はほとんどありません。早くから進んでいるのは水田基盤整備工事で、昨年、一部では作付けが開始されたところもありました。

各漁港は1m近く沈下してしまった船揚場の嵩上げ工事がようやく終る程度で、一部の防潮堤や河川堤防工事も始まっていますが、復興はまだまだ先の話です。

こうした復興への歩みを毎月継続して元気づけてくれる滋賀県立大学の学生さんたちが、4周年に合わせて「キャンドルナイトin田の浦」を開いてくれました。200本のペットボトル、150本のプラスチックホルダーに彦根市内の児童からのメッセージ入りのキャンドルが灯されました。

南三陸町は、全国の皆さんのこうした温かい支援を力に復興に進んでいます。皆さんにも復興の本当の姿を知ってもらいたいと願っています。

生かされた命を大切にして生きる
村上 郁子さん

あれからもう4年になるんですね。私には、避難した公民館の窓から見えたプロパンガスのボンベが一晩中爆発していた光景が忘れられませんし、息子からの携帯メールで互いの無事が確認できた時の安堵感も一生忘れないでしょう。つい最近のことのようでもあり、遠い昔の出来事だったようにも思えて、複雑な気持ちです。

私は主人を早く(47歳没)亡くし、息子と二人暮らしでした。NTT退職後は専業主婦で、息子の世話と洗濯と食べることと、週一回のフラダンスが楽しみの生活でした。琴やマンドリンもかじったりしたこともあったんですが、飽きっぽいからか長く続いたのはフラダンスだけでした。年1回の発表会を楽しみに練習していて、地震に遭ったのはそのお稽古中でした。

わが家が流されてしまうほどの大きな津波が来るとは思ってもいなかったので、可愛がっていた猫は二階に逃げられるようにしただけ。家に置いたままで避難しましたので可哀想なことをしました。

息子の体験談がNHKラジオで放送され、息子が亡くなった主人に何度も問いかけて選んだルートのお陰で九死に一生を得たことを知りました。こんなに多くの犠牲者の方が出たのに、身内や近い親戚に犠牲者がいなくてすんだことに人の運命の不思議さを強く感じました。私も、亡くなった主人に守られたのかもしれません。鼎談をした方たちも身近な方が犠牲にならなかったようでホッとしました。

息子がその体験談の最後で、「被災者たちは皆口を揃えて『がんばろう!』と言いますが、私は今ここに生きていることだけで十分に頑張っていることに値すると思っています。また、生かされた命を大切にしようとも思っています。わが気仙沼市も、全国、いや全世界からあらゆる支援を頂いています。いつの日か復興のめどが立った暁には、必ずや恩返ししたいと思っています」と言っています。

私も、生かされた命を大切にしようと強く思っています。阿部さんのような積極的な活動はできなくても、自分に与えられた一日一日を、命を大切にしっかり生きていくことが、復興に向けた力になると思っています。

(LA No.296)

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