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OB対談 | いきいきセカンドライフ1

俳句と季語のはなし

ふりむけば夕日にそまる富士の山

小学校6年生の「鎌倉〜東京修学旅行作文」の中にある、筆者の句である。
江ノ島水族館から弁天橋を渡って、島内の宿泊先である金亀楼に向かうとき、夕日の圧力を感じて西の空を見るとオレンジ色の夕焼けの中、驚くほど大きな富士山が迫ってきた。という情景を詠んだものである。
しかし、このへたくそな韻文(いんぶん)は「俳句」とよんでいいものなのだろうか。
五七五の17字でできているのだから俳句なのだ。と、少年は考えたのだろうが大切なものが欠けていた。そう、季語である。
季語とは季節を表す言葉のことで、俳句には季語を一つ入れるという基本的な約束事がある。そんなことはずいぶん前から知っていることなのだが、このときはまだ知らなかったに違いない。

ではなぜ俳句に季語が必要なのか。「一億人の俳句入門」(長谷川櫂著:講談社)で長谷川氏はその理由を二つの方向から解説している。大意を紹介する。
一つは歴史的な事情。「俳句に季語を入れる理由を探るには、俳句以前にさかのぼって、日本人と季節、日本の詩歌と季節がどうかかわってきたかをみなければならない。
日本列島は草木の深い緑に覆われた島々である。ここに住む人々の折々に口ずさむ詩歌がおのずから季節の賛歌となり、季節にとけ込んだ暮らしの賛歌となったのはむしろ当然だろう。季語には遠い昔から季節とともに暮らしてきた日本人の記憶がこめられていることになる」
二つ目は、季語の働きから。「季語にはふつうの言葉にない働きがある。ふつうの言葉は物事を指し示すだけだが、季語には悠久の時間と広大な空間が内蔵されている。これが季語の宇宙である。俳句に季語を詠みこむということは、俳句にこの季語の宇宙を取りこむことである。俳句は短い文芸であるから、一つの言葉の中に大きな宇宙が内蔵されている季語はなくてはならない言葉なのだ」

季語は俳句に季節感を与えるためのものでなく、俳句が季語の宇宙を楽しむためのもの。
そう解釈すると、俳句における季語の役割、大切さが認識できる。言葉の「意味」ではなく「意味するもの」に注目し、季節や自然のありさま、人々の暮らしや想いを想像力を活かして作り上げる言葉の使い方。それが俳句における季語なのだ。

しかし明治以降、近代になって俳句の季語と実際の季節のずれが大きくなってきている。明治以前の旧暦から新暦(太陽暦)に替わったからである。正月から始まって、雛祭り、端午の節句、七夕、お盆などほぼ一月ずれてしまった。お盆は、東京では新暦7月だが筆者の故郷では旧暦7月、新暦の8月に行う。季節の区切りは旧暦だとおおよそ、1-3月春、4-6月夏、7-9月秋、10-12月冬となっている。新暦だとおおよそ、2-4月春、5-7月夏、8-10月秋、11-1月冬となる。季語の「盆」や「盆踊」は秋の季語である。同様に「七夕」も秋の季語である。七夕といえばもちろん7月7日の行事だ。新暦で7月なら季節は夏、ならば夏の季語でいいだろう、というのは乱暴すぎる。
七夕の宇宙観とは何か。空に広がる壮大な天の川が題材のはなしである。新暦の7月といえば、梅雨の真っ盛りである。空に広がる天の川から、神々のストーリーを想像するにはあまりにも雲が厚すぎる。梅雨明けした8月の空であれば、宇宙と地上の距離を手が届く範囲に近づけることができる。俳句における「夏」のイメージは、梅雨を中心とした過ごしにくい時期であり、「秋」は空と近づく清々しい季節なのである。
「七夕」も「天の川」も「盆」もやはり、旧暦7月で季節は秋。
季語は想像力の賜物なのだから、実際の時期や季節がどうこうは関係ないのである。

 ところで、季語はどうやって探せばよいのか。
そのために専門の書物がある。「歳時記」である。歳時記は季語を春夏秋冬と新年にわけ、季語の解説や季語を使った例句を収めたものである。吟行などの際に便利なコンパクトなものから、百科事典ほどのものまで様々である。
季語は季節の他にも、様々に分類されている。「時候」「天文」「地理」「生活・行事」「動物」「植物」などなど。著名人の忌日(きにち)が、「啄木忌」「桜桃忌」「憂国忌」などという呼び名で季語になることもある。
「バレンタインデー」や「クリスマス」、「デッキチェアー」や「サングラス」といったカタカナの新しい言葉が季語になるのを否定はしないが、歳時記の中にある古き良き季語から日本の美しい季節感や人々の感性を想像してみるのも楽しいものである。
たとえば「花明かり」など、どうだろうか。
まずは想像してみよう。花の・・・明かり・・・

おしゃれ季語辞典」(三省堂)によれば、「桜の花が満開で、闇のなかでもあたりがほの明るいことを「花明かり」という。宵の口から夜半にかけ、次第に闇の迫ってくるころ、遠景の花の山はそこだけぼんやりと白く、暮れ残ったように見える。また、花の枝の下に入ってみると、急に足下が明るく感じられたりもする。もちろん物理的な光度ではなく、心理的な光度。風流を愛でる人のみが心裏(しんり)に感じる、花のあえかな光量といえよう。それにしても、いにしえ人の風雅と美意識は実に奥深い」ということだ。
風流を愛でられる人になりたいものである。

夫とゐる幻のなか花明かり 桂信子

花明かりしてこの世かなあの世かな 篠崎圭介

「おしゃれ季語辞典より」

                      

俳句作りは別としても、是非読みものとして身近に歳時記をおいていただきたい。

ところで先日、動画でも紹介している「サロン句会」の取材に行って驚いたのだが、みなさん季語検索に電子辞書を利用していた。歳時記はもちろんだが、国語辞典や古語辞典、歴史事典や外国語の辞典まで収録されているから、句作以外にも活用できそうである。俳句も季語も日々変化進歩しているのだろうが、句作の道具や環境はより大きな変化進歩を遂げているようである。

さて最後に、文頭の似非俳句に季語を加えて、形ばかりでも俳句らしくしないことには、この拙文の文末を迎えることはできないだろう。

ふりむけば夕焼け背負い富士の山

「夕日」は季語に見あたらないが、「夕焼け」は夏の季語にあった。
こんなへたくそな句であっても、この句のおかげで40数年前初めて見た夕焼けの富士山の感動が、昨日のことのようによみがえってくる。俳句とは、ありがいたものである。

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