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巻頭インタビュー いまを生きる

三國 清三 さん

一生涯、一シェフ

オテル・ドゥ・ミクニ オーナーシェフ 三國 清三さん

「スイスの日本大使館に料理長として行きなさい」。青天の霹靂。二十歳だった。15歳で料理人を志し、札幌グランドホテル、帝国ホテルで修業を続ける。しかし、パートタイマーの鍋洗い。ホテルでは、一度も料理を作ったことがないのに・・・「返事するまでに、三秒考えましたね」と、三國さん。

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一生涯、一シェフ(PDFファイル 984KB)

サイドストーリー

インタビューしたのは10月の下旬。

その頃、偶然が重なって、普段は出来ないような「食」にまつわる体験をすることが出来た。

親しくしている方に、三ツ星レストランにつれていかれ、また別の日、ある仕事を少し手伝った礼としてディナーに招待したいと言われ、私は迷わず「オテル・ドゥ・ミクニ」を指定させてもらった。

三國さんの取材前に一度は体験しておかなければ、と思っていた矢先のことで、幸運というしかない。

そして「立食い蕎麦屋」にも行った。?????

なんと三國さんはJR四ツ谷駅構内にある立食い蕎麦屋の常連なのである。
ちょっとした空き時間に顔パスで改札を通り、食券販売機で「ざる」と「かけ」を押す。
「マクドナルドだって行きますよ」
店内に入っていくとき、すれ違った人は必ず戻ってきて三國さんであることを確かめ、怪訝そうな表情になるという。
あのフレンチのオーナーシェフ が・・・
「それがまた面白いんですよ」
高級な料理ばかり食べている人は尋常な人間じゃない、とまで言い切る。
幼い頃から鍛えぬいた味蕾は、どんな味覚に出会っても揺らぐことがないのだろう。
こうした三國さんが行きつけの店や食べものについて、
「僕はこんなものを食べてきた」(ポプラ社)という著書の中に描かれている。

さらに著書の紹介。
「料理の哲学」(青春出版社)
三國さんが、修業時代に出会った5人の天才シェフから学んだ料理の真髄、そこから導き出された独自の料理哲学を語っている。
世界中の美食家を魅了する「ミクニ料理」は、いかにして生み出されるのか。
食材へのこだわり、調理に対する独自の考え方など、その味を、その盛りつけを、そのサービスを形づくるまでの思索の軌跡。

「奇跡の一皿」を生み出す三國さんの秘密が明かされる。

最初に出会ったシェフ、フレディ・ジラルデ氏とのエピソードが面白い。
大使館の料理長を勤めているとき、そこから電車で1時間のところにジラルデ氏がレストランを開いていることを知り、訪ねていく。
スイス銀行の金庫を破るのより難しい と言われているジラルデ氏のレストランの予約。
けんもほろろに追い返されそうになるが、必死に頼み込み、週に一度、大使館の休みの日だけ通うことを許される。
といっても、無給で皿洗い、鍋洗い。
おそらく、三國さんの鍋洗いの技術の素晴らしさにジラルデ氏は驚愕したのではなかったか。

札幌グランドホテル、帝国ホテルで鍛えた皿洗い、鍋洗いの技術は半端なものではない。
渾身の力を込めて、スピーディーでありながら丹念。
3年間通い、大使館を退職後、本採用でジラルデ氏に師事する。
本採用になる際、就労ビザが下りなかった。そのとき、ジラルデ氏が奔走し、国の機関と折衝し、強引な粘りでビザを獲得するあたり、よほど三國さんに惚れ込んでいたのだろう。

もう一つ。
様々な道を究めた人たちが語る講談社のシリーズ本「15歳の寺子屋」の中に、三國さんが著した「前進力」という一冊が収められている。
中高生向きに易しく書かれているのだが、三國さんの料理哲学を知る上で参考になる。

取材直後の10月末、ある所用で北海道にいくことになっていた。
その時、ボスから「増毛に寄ってみないか」と切り出された。
三國さんの記事内容がまだ決まっておらず、どうしたものか考えあぐねていたときのことで、即断した。
北海道・増毛町は三國さんの生まれ故郷。
行くことで何かきっかけのようなものが掴めるとも思えなかったが、その場に立ち「風」を感じてみたかった。
一体、幼い頃から受けてきた増毛の 「風」とはどんなものなのだろう。

所用を終え、留萌本線に乗って増毛へ。
三國さんが料理を監修したというホテル「オーベルジュましけ」に宿をとり、
夜、ディナーを堪能した。
料理を運んでくる女性に聞いたところ、時々三國さんはここに足を運んで、料理研修するらしい。
その手際は見事という他なく、鳥肌が立つような素晴らしさだったという。
翌日、海岸線を走るバスで国道231号線を留萌方面へ。

三國さんの実家があるという朱文別で降り、歩き始める。
海からの「風」が冷たい。かもめが防波堤に並んで止まり、近づいていくと手前から順に空へ飛び立っていく。
本格的な冬が訪れた時の過酷は、どれほどのものなのか、想像することができない。

中学を卒業すると、この海辺の町から札幌へ。
米屋の丁稚。
そこも社会という過酷な海だった。
日々、米の配達で駆けずり回り、店に戻ると、目の前にある高校からテニスに興ずる女子生徒の明るい声が聴こえてくる。
同じ年頃の三國さんにとっては、その白いテニスウェアは眩しかったに違いない。

三國さんの母上が住んでおられると思われる家のそばを通り過ぎ、幾つものバス停留所を通り過ぎる。
疲れ切ったところで、バスに乗り、留萌へ向かった。
三國少年が獲れたアワビやウニを競りにかけるため、留萌の市場まで歩いた道を歩いてみたかった。
留萌駅から十五分ほどだろうか、真冬の雪の中をラッセルして進む少年を思う。
背負った一斗缶の重さを思う。
曇天の空の下、それよりも更に深く、重い海が広がっていた。
波の飛沫が、蛇口から迸る鍋洗いの水と重なった。

(LA No.349)

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