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巻頭インタビュー いまを生きる

いのち は いのち

ペシャワール会 現地代表 中村哲さん

政情不安で内戦の絶えることのなかったパキスタン、アフガニスタンで30年。
日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)の派遣医師として、ぺシャワール・ミッション病院赴任を足掛かりに、アフガニスタンでは無医地区の診療所開設に力を注ぐ。
2000年の大旱魃(だいかんばつ)を機に、井戸掘り事業を開始、更に用水路建設に至った。

と、こう書くのはたやすいが、この人の歩いてきた道のどこを切りとっても、試練、困難、忍耐が溢れ出てくる。
だが、中村さんは、好きなことをしているだけだ、と言う。
「立派な動機があってそこに赴き、 志と信念を貫いて現在に至ったというのが分かりやすいですけれども、 残念ながら、 私にはこれといった信念はありません。自分の気に入ったところで、 自分のできる範囲で、人々と楽しい気持ちで暮らす方がいい。それ以上の望みもなかったし、今もありません」

本文

冊子本文はPDFにてご提供しております。本ページをご覧いただく前に是非ご一読ください。

(PDFファイル 1.1MB)

サイドストーリー

講演会を行った西南学院大学にて
講演会を行った西南学院大学にて

この「いまを生きる」の企画が持ちあがった時から、ずっとこの人を取材したいと思ってきた。
ぺシャワール会広報担当の福元満治さん(事務局長)には電話で話したり、メールしたりしていた。
中村さんはアフガニスタンで暮らしている。
日本に帰ってきても講演会や授賞式で、とても取材の時間を取れるとは考えられなかった。
今回は、取材をする期間と中村さんの帰国が偶然重なることで実現した。
九州・福岡にある西南学院大学で開かれた講演会の前にインタビューさせて頂いた。
桁違いの人間の大きさに出会い、改めてその精神力の強靭さに驚かされたが、その素晴らしさを記事を通して充分に伝えることはできなかった。

「医者、用水路を拓く」(図書出版 石風社)
「医者、用水路を拓く」(図書出版 石風社)

冊子本文では、主にマルワリード用水路建設の一部を取り上げたが、紙数の関係から簡単な説明、紹介に終わり、建設過程にあった障害、天災、人災。それぞれの細部にどんな努力、試練、挑戦、解決があったのか、本文に記すに至らなかった。
中村さんの著書「医者、用水路を拓く」(図書出版 石風社)では、幾度もやってくる難関を乗り越えていく様が詳細に記されており、その内容は読む人を圧倒する。
ここでは、ほんの少し触れてみる。
例えば、用水路は、川が流れ下っていく角度より傾斜角を少なく設計する。そうすることで取水口から離れれば、次第に川との高低差がつき、川よりはるか上にある農地を潤すことができる。水路の高さを維持したまま、遠くまで用水路を伸ばすために、時におよそ1kmに渡って、高さ20m、底辺幅50mの盛り土をしていき、その上部に水路を掘っていくなどアフガニスタンでは過去に例がない工事を断行している。少し盛り土をしてはローラーで踏み固めるという気の遠くなるような作業だ。
工事の種類も、道路工事、護岸工事、架橋、湿地帯処理、土石流対策、植樹、河川流路の変更など多岐わたる。
その途上で発生する事象への批判や感情の起伏も、声高でなく抑制の効いた文章で綴られ、思わず引き込まれる。

マルワリード用水路建設。
精神と気力だけで生きていた7年間だったという。
数百年ぶりの大洪水、集中豪雨などの天災だけでなく、米軍による誤射事件、地方軍閥の妨害、反米暴動、技師たちの脱走、裏切り、盗難、職員の汚職と不正、内部対立、対岸住民との角逐(かくちく)、用地接収をめぐる地主との対立、人災を挙げれば枚挙にいとまがない。

河川工事に欠かせない蛇籠(じゃかご)づくり
河川工事に欠かせない蛇籠(じゃかご)づくり

子どもたちの明るい笑顔、後ろを流れるのはブディアライ横断水路
子どもたちの明るい笑顔、後ろを流れるのはブディアライ横断水路

最初にハンセン病と出会ったこと。
このことが、パキスタン、アフガニスタンに長く関わっていく大きな理由になっているように思える。
赴任する1年半前にぺシャワール・ミッション病院に下見に行った時、パキスタンのハンセン病診療に献身している女医と出会ったことも、大きな動機だった。
当時はパキスタン全土で患者約2万名、ハンセン病専門医は3名のみ。
ぺシャワールに内科や外科の医師は溢れているというのに、ハンセン病は医師たちからも敬遠されていた。
1984年5月に赴任すると、院長に「ハンセン病棟担当」を申し出る。
「誰も行きたがらない所へいけ。誰もやりたがらぬことを為せ」という、後にぺシャワール会の基本方針となる言葉通りの行動の始まりだった。

当時の病棟は、対象患者2,400名に対して病床数16。
とても「病棟」とは言い難い環境の中で、数年間は苦闘の連続。
1985年には四畳ほどの手術室を造った。停電が多かったので懐中電灯が活躍。器具の消毒、洗浄、患者の搬送まで自分の背中に担いで行っていた。
この激務を日々、見ていたハンセン病患者が自発的に助手をかって出た。手足に障害のない患者たちが駆け寄ってきて搬送する光景が日常茶飯のこととなった。
この時代の最も画期的なことは病院内にサンダル工房を開いたこと。
ハンセン病は手足の感覚麻痺を起す。痛みを感じないから、足の裏に傷を作りやすい。傷に気付かず、同一患部を痛め続け、結果足に穴が生じる。放置すると、皮膚ガンや骨髄炎を起こして、しばしば切断手術を行っていた。
患者の履物を見ると、ボロボロで釘を打って修繕したものもあり、傷ができない方が不思議だった。
中村さんは町の靴屋に通いつめ、サンダルを購入しては分解、理想的なサンダル作りに没頭した。
快適さ、素材、革の質、コストなどを考え抜き、工房を開く。
これが大当たりで、患者たちが作ったサンダルが出回り始めてから、足の切断が激減した。

ぺシャワール・ミッション病院でのエピソード。
ハンセン病棟の門衛をしていたサタールさん。彼もハンセン病で手の指を失っている。
指のなくなった手は中村さんの診療の役にたった。感覚障害で不注意にやけどを繰り返す、ききわけのない患者がいると、中村さんはサタールさんを呼ぶ。
サタールさんも心得たもので、威嚇するように指のない手を患者の前に突出し、大袈裟に芝居してみせる。
患者はそれを見てぎょっとする。
「はやく俺も言うことを聞いていれば、こうならなかったんだ」とサタールさん。
信頼関係がなかったら、中村さんもこういうことはしなかっただろう。
これは中村さんが病棟に勤める人たちと、どう向き合ってきたかを伝えてくれるエピソードだ。
「それが、いいことなのかどうかは分かりませんが」

(著書「アフガニスタンの診療所から」筑摩書房)
(著書「アフガニスタンの診療所から」筑摩書房)

これまでの様々な中村さんの発想・行動を見てくると、「根源に遡る」という言葉が浮かんでくる。
足裏の傷の悪化(足底潰瘍)⇒サンダルが悪化を招く⇒理想的なサンダルに改造
感染症の蔓延⇒水不足・食糧難⇒清潔な水と充分な食糧⇒井戸掘り・用水路建設
病を治すことよりも、その原因と向き合う。

以下は断片的に中村さんが話したことや、書いていること。

確信できること。
武力によってこの身が守られたことはなかった、という。
1993年、アフガニスタンのダラエヌール診療所ができて2年ばかり経った頃、悪性マラリアが大発生した。
一日300人、と決めて来る日も来る日も治療していくが、追いつかない。ある日、順番を待ちきれなくなった村人たちが、夕闇迫る頃、診療所に押しかけてきて、治療を迫る。中には発砲してくる者もいる。怯えたスタッフの一人が応戦しようとした。「死んでも撃ち返すな」と中村さんが止めた。そのことで村との信頼の絆が生まれ、村人たちは後々までスタッフと事業を守った。


水路の脇に柳が植えられる
水路の脇に柳が植えられる

日本で報道されるアフガニスタンは、政治現象ばかり。
自爆テロがあったとか、アメリカ兵が死んだとか。
普通のアフガン人がどのような日常生活を送っているのか、ほとんど伝えられていない。
「アフガニスタン人は良くも悪くも宗教的な人たちなんですね。
ひとつの文化なんです。
われわれが日本語をしゃべり、味噌汁を飲み、下駄で歩くように、宗教はそれに近いものがある。
それについてまで善悪を云々する権利は、他国の人にはないんじゃないですかね」

「生きている上で、 “人として最低限これくらいはしなければ” ということを大事にしていけば、どんなに世の中が変わっても、 大体誤りはないのではないか。 どの場所、 どの時代でも、 一番大切なのは命です。 子どもを亡くした母親の気持ちも世界中同じです。親の気持ちは痛切です。 そういう命に対する哀惜、 命をいとおしむという気持ちで物事に対処すれば、 大体誤らないのではないかと私は思っております」

もし真理というものがあれば、それは地下水みたいなものだという。
どこを掘っても出てくる。
ただあちこちチョロチョロ掘っていても水は出てこない。
どんな仕事でもいい、一ヵ所にじっととどまって掘りつづける。

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(LA No.190)

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