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巻頭インタビュー いまを生きる

全ての生命が潔く、
健やかに生き続けるために

映画監督 龍村 仁/「森のイスキア」主宰 佐藤 初女

龍村仁さんは、1940年京都の織物店に生まれた。祖父は皇室御用達にもなった美術織物の先駆である。その創造的な遺伝子が、映像作家・監督としての龍村さんの中に脈々と流れている。1963年、映像の世界を目指してNHKに入局するが、10年後ロックバンド・キャロルのドキュメンタリー制作・放映を巡りNHKを去ることとなった。その後、フリーの演出家としてTVドキュメンタリーやCMの監督として活躍。その作品により幾つかの賞を受賞している。1992年、オムニバス形式のドキュメンタリー映画「地球交響曲・第一番」を公開。1995年公開の「地球交響曲・第二番」の制作において本誌で対談の佐藤初女さん(森のイスキア主宰)と出会い作品の中心に据えた。
映画「地球交響曲」は第一番の公開以来、3年に1本のペースで制作されて今年は第七番が公開された。いわゆる娯楽映画とは一線を画すこの映画は、龍村監督を支持する熱烈なフアンにより自主上映会として全国各地に広まり定着した。
1996年「京都府文化功労賞」を受賞、1999年には地球交響曲一番〜三番の制作と自主上映を行い「おおさか映画祭話題賞」を受賞した。

佐藤初女さんは、1921年青森市に生まれた。函館の女学校に入学するが肺結核を患い、その後17年間にわたる闘病生活を余儀なくされた。その闘病生活の中で、薬や注射に頼らず食べることで元気になろうと思われた。女学校を卒業後、小学校の教員になるが24歳の時に結婚、それを機に退職した。幼い頃に協会の鐘の音にひかれたそうだが、洗礼を受けたのは結婚後、子供を授かってからである。52歳の時に夫と死別、ろうけつ染を教え、弘前学院大学の非常勤講師として生活を送る。
1983年「弘前イスキア」として自宅を開放し、悩める人々の話を聞き、食事を用意してきた。それは、初女さんが自らの闘病生活の中で体感してきた「心を開き、食べれば治る」ことを、奉仕の心で実践する場であった。そしてその活動は大きくなり、共感する人々の手で1992年、岩木山麓の「森のイスキア」の完成へとつながる。

初女さんの活動は多くの人が知るところとなる。記事となり龍村監督の目にとまる。そうして必然な出会いが生まれた。

初女さんが、美味しい食事ができることについて、「直感」だと語ったことがある。「今まで蓄積されたものが必要な時にぱっと出てくる。それが直感だと思う」。
一方、龍村さんは映画の出演者は出会った瞬間に直感で決まるといわれる。
いずれも、それまでの経験、知識、積み重ねられた心眼の結果に他ならない。
1994年の早春、直感と直感が出会った。

本文

冊子本文はPDFにてご提供しております。本ページをご覧いただく前に是非ご一読ください。

龍村 仁氏/佐藤 初女本文(PDFファイル 1.4MB)

サイドストーリー

文:ルポライター津川宏幹

今回はお二人を取り上げて一つの記事にすることになった。
テーマとして浮かんだのは
「出会うということ」について
「老いるということ」について
そして、もうひとつ
「探すということ」について

地球交響曲には、実に様々な人たちが登場する。
その人たちを探し求め、出演までこぎ着けるのは並大抵の努力ではなかっただろう。
その、探すプロセスを知りたかった。
一方初女さんの方は、今までに無数と言っていいほど多くの、心病み体病む人たちと接してきたが、その人たちを探しに行ったことはない。

龍村さんは「探す人」であり、初女さんは「探される人」

そんなことから龍村さんへのインタビューは始まったと思う。
そのことについて「よく人から『どうやって、ああいう方々を探してこられるんですか?』って聞かれるんですが、探しに行かないんですよ。ご縁で出会ってしまう。探した、という意味では地球交響曲・第二番の初女さんの時ぐらいでしょうね」

そして、「むしろ初女さんの方が“探して”いますね」。
それは龍村さん独特の解釈だったが、初女さんはいつでも“探して”いる、と言う。
日頃、初女さんは自分から話し始める人ではない。
日常の営みについて説明することがない。
それだけに、その意味を深く理解してくれる人を、心のどこかで探しつづけていると言えるかもしれない。
言葉少ない初女さんの話から察すると、龍村さんのような人を探しつづけていたのだろう。

実はおよそ10年前のほぼ同時期に、それぞれ個別に取材したことがある。
お二人に対談してもらえれば、地球交響曲・第二番から今日までの軌跡、映画撮影当時の話など面白いものが出来たのだろうが、撮影の現場にいなかった者が、それぞれのお話を伺いながら、まとめるとどうなるか、というのが今回の課題だった。

もう16年も前のこと。それぞれの記憶が細部では微妙に異なりながらも、肝心な所ではピタリと一致していた。
龍村さんの映画製作の姿勢、初女さんの「食」への向き合い方、どちらも10年前と寸分も狂うことなく、その姿勢を貫いている。

龍村さんのスタッフと初女さんのスタッフ

龍村さんの撮影スタッフ。
初女さんの、森のイスキアでお手伝いしているスタッフ。

共通するニュアンスを感じた。
その動きは、慌てて動くことがなく、無駄がなく、気配を消すべきは消し、必要に応じてそれぞれの自己も表現する。

龍村さんのスタッフに会う機会はなかったが、映画を観ているだけで現場にいたスタッフがどのように動いていたか、その居ずまいが目に浮かぶ。

さらに卓越したカメラワークの素晴らしさ。
ドキュメンタリーという映画の性質上、その“場”に流れている、或いは隠されている“気”を撮り逃がしてしまうと致命的である。
ことにインタビューのシーンでは力量が問われると感じる。
もう一度、今のところを撮り直しましょう、ということが出来ない。
それをした途端に、緊張感のない冷えたシーンになってしまう。

扉は何時も開いていた

15年程前、初女さんの出演した地球交響曲・第二番を観た直後、友人に誘われて「森のイスキア」にお邪魔した。

その後、弘前には幾つか別の仕事があり、仕事の合間、時間が出来ると森のイスキアを訪ねていた。

一度、こんなことがあった。
別の仕事を終えて、帰京する列車の発車時刻まで時間があった。
初女さんは相変わらず講演会、講習会で全国各地に出かけていて、弘前でお会い出来ることは稀だったが、電話だけでもと思い、かけてみた。

幸運なことに初女さんはいらっしゃった。
名前を名乗り、少しでもお会いできないかと話すのだが、かなり耳が遠くなられていて、よく聞き取れないようだった。15分位なら時間が取れそうだというので、タクシーを飛ばして行った。
着いて2階に案内され、テーブルを挟んで座った。初女さんは初めて私を確認されたようで「ああ、あなただったんですか」と言われた。
つまり誰だかわからない人間を招き入れていたのだ。

そんなことを龍村さんに話すと、
「僕の最初の時もそんな感じでしたよ」という言葉が返ってきた。

弘前イスキア時代、病んだ人からの電話が真夜中でもかかってくる。
その人のために電話は枕もとに置いていたし、更には深夜、訪ねて来る人もいて、そんな人たちも誰だかわからないまま初女さんは招き入れていた。

初女さんとお会いすると必ず出る話題に「あの時のふきのとう」というのがある。
たいへん私事に偏るのだが、初女さんの一面も伝えているので書いてみる。

もう10年も前の話。
森のイスキアを訪ねるといつでも夕食の時にはお酒を頂くのだが、この時は「頂く」の範疇を超えていた。
恥ずかしいことだが、酔っ払った。
そんな時、初女さんは決して止めないのだ。
寝る段になって、2階の部屋まで何とか這うようにしてたどり着いたような有様。
眠りに就いたが、まだ暗いうちに目が醒める。
眠っているうちから恥ずかしがり始めていた。
血中アルコール濃度が下がるにつれ、昨夜の酔態が蘇り、居たたまれなくなる。
よし、皆の起き出す前にここを一旦出て、入れそうな穴を探そう。
階下に降りるとキッチンにふきのとう採取の道具が置いてあった。
もうふきのとうの季節は過ぎていたが、気休めに持って出た。

森のイスキアに至る湿原から岩木山を望む。
春、湿原に水芭蕉が咲く。

何時間、歩いただろうか。入りたくなる適当な穴はなく、諦めかけていたその時、ある雑木林の中に呆然と立っていた、そこにあることを忘れられた雑木林と、ふきのとうの群生。
頭の先を地上にちょっと出しただけの何百というふきのとう!
夢中で採った!採った!採り続けた。まるで取れば取るだけ昨夜の酔いつぶれが帳消しになるとでもいうように。

イスキアに持ち帰った時の皆の驚きようはなかった。
ふきのとうの入ったビニール袋の中を覗き込んだお手伝いの女性の叫びに近い驚きの声を今でも思い出す。
その時のことを初女さんは10年経った今でも憶えていて、会う度に話される。
でも前夜の「酔いつぶれ」の方には一度もふれたことがない。

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