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大震災の体験を聞く「100日後の被災地」

3.11その時、何が起こったか

2011年3月11日、かつて日本では体験したことのないマグニチュード9.0という巨大地震が宮城県沖で発生しました。大きな揺れに続いて青森県から千葉県までの沿岸に押し寄せた津波は、多くの人命や財産を奪い去りました。web版では、津波の最前線で被災されたOBの皆様からお伺いし、本誌に掲載されなかった余話をお伝えいたします。

本文

冊子本文はPDFにてご提供しております。本ページをご覧いただく前に是非ご一読ください。

「3.11その時、何が起こったか」本文(PDFファイル 1.1MB)

サイドストーリー

100日後の被災地

小林秀夫さん(昭和15年生まれ・70才)

東日本大震災で大きな被害を受けられ、避難所生活を余儀なくされたNTTOBの方から話を聞かせて頂いたのは、震災からまもなく100日を迎えようとする頃でした。
電友会東北地方本部・佐藤紀也事務局長の計らいにより、仙台市の小林秀夫さんご夫妻、庄子鐵男さんご夫妻、気仙沼市の吉田政子さん3組の方々が取材に応じて下さいました。

先ず、現在仮住まいをされている仙台市太白区にお住まいの小林秀夫さん・明子(めいこ)さんご夫妻のお宅を訪ねた。
玄関前に避難所でも一緒だったと聞いた白い犬の「ハッピー」が鎮座、小林さんのビジネスシューズが数足陰干しされており、水害を偲ばせていたのが印象的であった。

 
愛犬ハッピー

震災・津波に遭ったのは、仙台市の南西にあたる亘理町(わたりちょう)。ご夫妻は、この温暖の地に12年前、終の棲家にと新築し、野菜作りを楽しんでおられた。
「ここは、仙台の湘南と呼ばれるような温暖な所でなんですよ。ここに畑を持っており現役の頃から通っていました。そんなこともあって、終の棲家にと十二年前に家を建てました。趣味の野菜作りと、朝晩は愛犬と近くの“鳥の海”を散歩していましたが、海の近くとは言えこんな大津波が来るとは思いませんでした」

“鳥の海”と呼ばれる湖は阿武隈川の旧河口で、今は汽水湖となり海につながっている。津波の来る時間が一時間遅ければ、日課である愛犬との夕方の散歩時間と重なる。津波は、まず“鳥の海”から押し寄せたそうだ。

避難所生活で困ったのは愛犬の塒(ねぐら)であった。小林さんのお宅では自家用車を二台お持ちでしたが、自分達が乗った車は、一次避難先の吉田支所で流され、もう一台は避難する隣人に貸してあったが、幸にもこの車が無事で返ってきた。この車を避難所で愛犬の塒とすることができた。

「一週間程して自宅の様子を見に行きました。遠くから見ると、家は流されずに残っていたんです。大丈夫だと、期待したんですが・・・漸く(ようやく)辿り着いてみたら窓や壁は壊れ、家の中は荒れ果てていました。とても住める状態ではなかったんです。結局、その後撤去されました」

被災後の家の中(小林さん撮影)

「避難所での生活は、最初の三日間は誰とも、何処とも連絡が取れないので困りました。東京に嫁いでいる娘の友達が心配をして、各所の避難所を訪ね歩いてくれていたそうです。偶然、避難所の入り口で出会うことができました。ノートやペンの筆記用具まで持ってきてくれたので大助かりし、ようやく秋田の実家や娘達にも連絡が取れました」
その後は、一ケ月ほど続いた避難所生活で体調を崩すが、友人の世話で現在の住まいへと移ることが出来た。
避難所を探し訪ねてくれたお嬢さんの友達や、住まいや家具の世話までしてくれた友人のこと、そして秋田の実家のことなど。「人のありがたさをしみじみと感ます」とのことでした。

庄子鐵男さん(大正11年生まれ・88歳)
庄子トキさん(大正14年生まれ・86歳)

次にお伺いしたのは、庄子さんご夫妻でした。お二人とも電電公社の出身。津波の被害に遭った仙台市若林区荒浜の自宅は海岸に近く、傍には有名な貞山堀(運河)がある。30年前、ここに自宅を構えた頃は静かな地区であったそうです。
現在の住まいは、仙台市内にあるマンションの2階。今回の地震で、高層階に住むトキさんの友人が苦労をされたことを知り、下の階に住むようにしたとのことです。
鐵男さんに「大変な目に遭われましたね。こんな体験は初めてだったのでは」と訊ねると、『戦時中にアンダマン島沖で、乗船した船が潜水艦に沈められましてね。大変な目にあったことがありました』とのことでした。

地震のことに関心を持ち勉強してきた鐵男さんは、これまでの地震でも何度か自主避難をしてきた。幸にも、大きな津波がなかっただけに『気恥ずかしいような思いがあった』そうです。それでも、非常持ち出しのリュックを準備し、必要なものを用意してあったことが、今回の地震では大いに役立つこととなった。とりわけ、金融機関に必要な証明書類を非常用袋に仕舞ってあったことが大きかったそうです。
津波は、家だけでなくご夫妻の健康作りと楽しみであった畑も奪い、大切な謡曲・梅若流の教本や青春の思い出の写真を、多くのものを流し去った。それ以上に悲しいのは、深沼という地域の『絆』が奪われたことだとトキさんは言います。

吉田 政子さん(昭和13年生まれ・72歳)

最後にお伺いしたのは、仙台市での取材の翌日、気仙沼市在住の吉田政子さんを訪れた。取材チームは、気仙沼市や一関市での宿の確保ができず(仙台市内のホテルを、それも漸く確保できた)、仙台市内から早朝に気仙沼へと向かった。
三時間を要して気仙沼市に到着。吉田さん宅を訪問する前に気仙沼市内〜港を見ておくこととした。市役所辺りから下り坂となるメインストリートの左右の建物は、下るにしたがって津波の傷跡が生々しい。テレビで見た河北新報社のビル、港の風景が目の前に現れる。港に係留されたままの焼け焦げた船が無残な姿をさらしていた。

約束の時間となり、吉田さんが身を寄せているお兄さんの旧宅を訪問。取材には、電友会気仙沼地区会長の菅原さんも同席して下さった。

大津波が三陸沿岸を襲った時、吉田さんは家ごと流されるという恐ろしい体験をした。その時の様子は本誌に詳しく紹介したが、ここにもう一度概要を紹介したい。
「大地震があったときは、三歳になる孫と二人で家にいたんです。もの凄い揺れで、怖くて庭に出て木にしがみついていました。津波警報が流れて、6メートルの大津波がくると言いました。それでも小学校1年生の孫が、学校から帰って来たら困るだろうと家に残りました。万が一のことを考えて主人の位牌は玄関まで出しておきましたが・・・。
そうこうするうちに、息子夫妻が車で迎えにきてくれたのですが、津波が襲ってきたのは、それから間もなくでした。(幸に小学生のお孫さんは、お嫁さんが迎えに行き、自分の実家に預けた)
波がきたのは、あっという間のことで、大急ぎで家に入りました。位牌を取りに行こうとして息子に叱られ、慌てて二階へと逃げたんです。通り掛りの人が二人、入れてくださいと家にきて、息子夫妻と孫、六人が家ごと流されました」
と、当時の怖さを話された。
幸にも家は、壊れることなく津波に運ばれて川の上流へと700〜800m流され、支流の神山橋で停まり、九死に一生を得た。

吉田さんの家の流されたルート

三週間以上の避難所暮らしで不便な思いを強いられたが、お兄さんが住んでいた家に義姉と一緒に住むこととなった。
一番辛かったのは、前向きに物事考えることができなかったこと。「どうしてこんなことになったのかと・・・」そんなことばかりが頭の中をよぎっていた。
今は、「今日一日を精一杯生きていくこと」を念頭に、「離ればなれで暮らす息子夫妻・孫と、以前のように自分の家で一緒に暮らせることを願っています。」とのことでした。

津波の後、自宅が在った内の脇(ないのわき)地区へ足を向けることはなかった。それでも今回の取材の為に、自宅が在った場所に案内をしてくれた。瓦礫の撤去が進み、ダンプカーが行き交う道路際に立ち、自宅の跡を指差しながら「もう二度と来たくはありません」と、とても辛そうであった。

復興のためのトラックが行き交う
見覚えのある建物を探す吉田さんと菅原さん

電友会気仙沼地区の菅原会長によると「気仙沼地区にはNTTOBが、150人程住んでいましたが、その半分の方が何らかの被害を受けました。そして、残念なことに4人の方が亡くなりました。」とのことでした。

なお、東北エリヤにおけるNTTOBの方々の被害(6月13日現在)は、次のようになっています。

「電友会資料より」

本人死亡・・・20人、配偶者死亡・・・7人、
行方不明・・・8人、配偶者行方不明5人、
怪我・・・3人、
家屋流失・全壊・・・152件、家屋半壊・床上浸水・・・80件

■2011年東北地方太平洋沖地震による津波の高さ

2011年4月5日気象庁発表データより

小林さん、庄子さん、吉田さんの取材を終えた後、皆さんが被災をされた場所を訪れた。
宮城県の南にあたる亘理町から仙台市若林区荒浜へ、翌日は大船渡市・陸前高田市、気仙沼市・石巻市と海岸沿いのルートを辿った。
仙台平野へと繋がる亘理町から仙台市荒浜は、松林の先には延々と続く防波堤、豊饒の大地であったことを偲ばせる、見渡す限りの広がり。点々と住宅が残っているが、家の中は空家も同然に荒れ果て、屋敷森の樹木にはゴミが引っかかり、潮を被った農地は海岸から数キロにわたり草も変色していた。亘理町の大規模農地改良の記念碑が無残にも薙倒され道路脇に転がっていた。折れた電柱が其処かしこに残り、今は人が住めない土地となっていることを物語っていた。

亘理町鳥の海近くの被災地
無残に台座から剥ぎ取られた「開拓の碑」
仙台市若林区荒波地区の夕暮れ
木造の建物はほとんど見えない

小林さんご夫妻、庄子さんご夫妻の自宅があったであろう辺りに佇み、建物や光景を思い描こうとするがイメージが湧かない。何も無い、否、撤去される前の残骸となった建物は僅かに残っていたが、瓦礫の集積場と、それを運ぶトラックが行き交い、人の温もりは消え失せている。
庄子トキさんが言った『一番悲しいのは地域の“絆”が奪われたこと』その言葉の重さが胸に迫った。

港町の気仙沼、大船渡は港の辺りが特に壊滅的な被害を受けていると感じた。使えなくなった建物の整理がつかないままに、ゴーストタウンさながらに放置されている区域もある。大船渡駅は、駅舎も線路も形を残していない。広場とそれに続く道路によって、駅が在ったことが推測される。そんな光景が、三陸の沿岸には点在していた。

大船渡駅前
大船渡駅のホームと線路

陸前高田の街は、湾の端から端、平野部が途切れる山際まで果てしなく見渡せた。取材チームが訪れた時点では全ての橋が使えず、海岸から数キロ奥の山際まで大きく迂回するしかルートはなかった。街の建物は撤去が進み、道路沿いに立て替えられた電柱だけが整然と並んだ光景は、あたかもニュータウン建設の始まりを連想させた。
今回の取材によってニュース等で観ていた以上に津波の大きさ、被害の甚大さが被災者の方々の心に与えたキズの大きさを思い知らされた。改めて一日も早い復興を願いたい。

陸前高田市の北方より市街地を望む

今回、吉田さんは、取材班のため、被災後はじめて被災地を訪れました。
変わり果てたあまりの状況に、言葉を失っていました。
そんな吉田さんが最後に「この場所なのか別の場所なのか、また家族揃って一つ屋根の下に暮らすことが夢」だと、語ってくれました。

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